分析家の独り言(子どもに適切な関心を向ける)
子どもの心を育てるために「まなざし」と「声」と「スキンシップ」が必要である。

親が子どもに適切な関心を向けるということ。

この子は何をしたのだろう、何か悪いことをしていないか、などの監視の目ではなく、あたたかく見守るというまなざし。

「ああしなさい」「こうしなさい」「あれをしちゃだめ」と命令指示したり、感情的に子どもを怒るのではなく、「あなたはどう思う?」と子どもの意向を聞くことや、「どうしたの?」と子どもを思う気持ちで声をかけ、子どもを理解しようとすること。

そして、抱っこをはじめ、手をつなぐ、頭を撫でる、体をさするなどのスキンシップ。

自分が育ってきた過程を振り返って、残念ながえらどれも得られなかった。

監視の目は向けられていた。

いつどこへ誰と何の用事で出かけるかと聞かれ、答えなければならなかった。

これは警察の調書と同じ。

これをされると嘘をつくのが上手くなっていった。

都合の悪いこと=親に怒られそうなことはうまくごまかすようになるからだ。

またこの監視の目が強いと、誰かにいつも見られている、見張られているような感じがすることがある。

とにかく「ああしない」「こうしなければだめ」と命令指示が多く、自由がない、窮屈。

親の意向にそった行動をするしかなく、自分で物事の善し悪しを判断できなくなっていく。

あるクライアントは、「あなたはどう思う?と聞かれたことがない」という。

はじめから自分がとる行動は決められいるようなもので、親の考えが何より正しく、それを聞かなければならないようになっている。

更に母親は生後7週間で仕事に復帰したため、祖母に育てられ、赤っちゃんの頃から抱っこされる機会は少なかった。

祖母が生きている頃、「あんたを連れてお母ちゃんの仕事場へ昼休みにオッパイをもらいに行った」とよく聞かされた。

小学校高学年か中学の頃だろうか、母に手をつなぎに行って「いい歳して、いやらしい」と言われたことがあった。

娘は二十歳を越えても、私が椅子に座っていると、何気なく膝の上に座ってくることがある。

ああ、これでいいんよねと思う。

「母と手をつないだことが無い」「母と買いものに行った記憶が無い」という人もいる。

母親である私たちが何かしら欠けている、適切な関心を向けられていない。

その自分が子どもを育てるのだから、さらに欠損は大きくなり、適切な関心を向けることはできない。

あらためて娘達には申し訳ないことをしたと思う。

遅ればせながら埋め合わせられてことと、まだ足りない部分があるだろう。

娘に声をかけ聞くことが、自分が親からされて嫌だった警察の調書のようになってはいけないと思うあまり、もしかすると聞いて欲しいと娘が思っていることまでスルーしてしまっているかもしれないと思うことがある。

そうかと思うと「お母さんは突っ込んで聞いてくれるから話せる」と言われることもある。

適切な関心というのは確かに難しい。

母親がその母親から適切な関心を向けられて育ったなら、当たり前のこととしてまた子どもにできるのだが。

親は子どもと接する(子育ての)なかで、子どもの反応を見ながら、学習することができる。

分析を通して理論を知って、子どもに適切な関心を向けられる母親になってもらう。


ラカン精神科学研究所のホームページ
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by lacan_msl | 2009-11-16 09:43 | 分析家の独り言 | Comments(0)
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