分析家の独り言 296 (分析により自分を知る、自分を生きる)
子どもの不登校、ニート、ひきこもり、非行等、その他何らかの問題で分析に来られる。

それは母親である場合が覆い。

今、目の前の子どもを何とかしたい。

様々なところへ行ったが、これといった変化・進展もなく、何年か経過した状態の場合も多い。

分析の初めは、クライアントから子どもの状態を聞き、その子どもへの具体的対応法や、なぜそういう状態になったかを理解してもらう。

子どものことを話す母親は、子どもの何らかの問題は子どもの問題ではなく、自分に何らかの問題があると薄々感じている人もいる。

分析的に表現すれば、母親がその親との葛藤(愛と憎しみ)に未解決で、そのことを無意識に抱えながら子育てした結果、今の子どもの問題を生んだということである。

分析を始めると、子どものことと共に自分の親のことが語られる。

そうして母親は自分と子どもの関係と、自分と自分の親との関係を見ていく。

そこに共通点が見えてくる。

母親自身も親に言いたいことが言えなかったり、親の顔色を見たり、親の愚痴を聞かされて来ていたり、自分を否定されていたり・・・ している。

そのことが母親自身嫌だったはずなのに、その嫌なことを我が子にしてきた、その結果が今の子どもの状態であると気付いていく。

そういう意味で、子どもの問題は、その子を生み育てた親の問題であると言える。

それに気付き、自分を見つめ、自分と親との葛藤を見るのは辛いものである。

せっかく気付きながら、分析から足が遠のくこともある。

気持ちはわかる。

それでも我が子のため自分の成長のためにと踏ん張るか、辛さに負けて自分と向き合うことを避けるか。

それはクライアントが決めるしかない。

取り組まなければ現状維持だが、子どもの年齢は上がり実質問題は大きくなっていく。

取り組めば、見たくない自分を見ることになりそれも辛い。

しかし、結果が違ってくる。

辛いながらも取り組めば、その先には子どもの幸せと自分の幸せが待っている。

主体性を取り戻し、自分らしく生きていける、人生を楽しめる。

しかしまた、その道程の遠さに人は尻込みするのだろう。

しかし、「千里の道も一歩」、「継続は力なり」である。

お金を払えば得られるというものではなく、ただひたすらこつこつ積み上げていく努力のみ。

この長い道程を越えた末に得られるものは、何ものにも代えがたいものである。

私の場合は、辛さもありながら例えマイナスの自分であっても、自分を知ることが楽しかった、嬉しかった。

謎解きのように、なぜ自分が生き難かったのか、その訳がわかっていった。

自分への智を得、そして自分を肯定し、自分を取り戻していった。


ラカン精神科学研究所のホームページ

月刊精神分析2009年4月号 なぜ分析で病が治るのか

月刊精神分析2009年5月号 精神分析家をえらびますか?
[PR]
by lacan_msl | 2009-12-22 10:57 | 分析家の独り言 | Comments(0)
<< ラカン精神科学研究所 年末、年... ラカン精神科学研究所メールアド... >>