カテゴリ:事件分析( 9 )
秋葉原通り魔事件分析
<秋葉原通り魔事件>

またしても、日本の家庭崩壊と社会の病理が生み出した、凄惨な通り魔事件が起きた。

私は瞬時にあの大阪の死刑となった「宅間」を憶い出し、彼の再来だと思った(附属池田小事件)。

あの無差別性は「社会と人間の不条理」を世に現して、宅間の殺人動機と同一であると確信した。

すると、正にあの6月8日は宅間の事件日だった。

とまれ、加藤も、あの記者会見で判る通りの夫婦の許に育てられ、あのサイトに書き込まれた彼の文面からも判るように、「主体性の奪取」による、彼の主体性の抹消こそ、彼の動機のすべてである。

あの夫婦、彼の両親の関係は、週間ポストの見出しにあるように、テレビを見ていた人誰もが抱いた印象を見事こう表現していた『倒れた妻をまるで荷物のように抱えた父親』と。

そして、その前に夫は、妻が泣き崩れているのに、一瞥もくれず、自分の荷物だけを先に家に入れていた。

ただ子どもを自らの自己愛の満足のために操り、主体性を奪い取りそして「見捨てた」のです。「中学になった頃には親の力が足りなくなって捨てられた」と彼は書いている。

夫婦の自己愛の道具にしたことと、見捨てられたことで、彼の心は壊れた。

あとは、親とそれへの憎しみを投影して、社会と人々に復讐することだけの主体が作りだした、「独占」行為しかなくなった。そうして選ばれたのが「ワイドショウの独占」だった。

事件を起す、それも飛び切りセンセーショナルなもので、それは「無差別殺人」しかなかった。

彼はこうして、日本の家庭崩壊した現状を先鋭的に示したのである。これは警告ではない、精神病理が現象化し始めた、パンデミックなのだということをわれわれは知るべきである。



ラカン精神科学研究所
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by lacan_msl | 2008-06-17 01:30 | 事件分析 | Comments(0)
金谷氏今月のメッセージ 平成20年4月
(以下は分析家仲間の金谷氏のHPにある金谷氏の今月のセージを私のブログで紹介しているものです。)

最近、「うつ病」と診断されてその診断に不信感を抱き、当研究所を訪れる人が目立つようになった。

先月来られた方は、子供に悩み相談する人も無く一人苦しんでいて、精神状態がおかしいと感じ心療内科を訪ねた所、話を5分程度聞きすぐに「うつ病」ですと診断されて、薬を処方された。

が、何かしっくり来なく、主人に相談したところカウンセリングの方がいいのではとアドバイスをもらって、当研究所に来所された。

話を聞けば簡単な事で、子育ての方法が分らず子供が示す行動の意味が分らずパニックになり、だんだんと自分が母親として失格なのではと、無力感と失望感に苛まれ

「育児ノイローゼ」に陥ってしまっただけである。

その絶望的な状態を見て医師は、判断したのであろう。

これは薬の出番ではない。「子育てとは」「母親の役割とは」と言う事を学び訓練し習熟すれば、簡単に乗り越えられる事である。

いつも相談に来られた方に申し上げているのですが、車の免許を取得する為に「自動車学校」がある。

一つ間違えれば人の命を奪ってしまう危険なものであるから、校内を走り、路上に出て実地訓練し見極めをし最後にテストをしてはじめて一人で車を運転することが出来る。

子育てにおいて、母になると言うことはいつ学びいつ訓練したしたのか?

何もしていないし、学んでいない。一人の人間を育てるのに学習もせず訓練もしないで出来るわけがない。

悩み苦しみ悲鳴を上げて当たり前である。その状態こそ正常であると言いたい。

産んで育ててもらった親を殺す。こういう事が起こっても当たり前ではないだろうか?

社会に役立つ一人前の人間に育てるのに自信を持っている人は、はたして何人いるであろうか?

本当に間違いないと言い切れるでしょうか?

我が恩師は“命の尊さ”を教えるのにはどうすれば良いか?の問いに即座に

「まなざしと抱っこ」と答える。


いつも暖かく見守られている。いつも安心出来る、抱擁してもらっている子供が間違った道に行くだろうか。

相談に来られるお母さんを分析していて強く感じる事は、子供にするどころか自分が抱きしめてもらいたくて、自分がいつも見ていて欲しい人であると。

故に私は、お母さんのお母さんがご健在であるならば、必ずお母さんの元に戻しあなたも甘えて下さいと指導する。

今更と言いつつも甘えに行かない人は一人もいない。

法則は「人間は学んだことしか出来ない」「自分が充分な愛情を受けて、安心出来る環境の中で育てられなければ、正しい安心出来る充分な子育ては出来ない」と言い切れる。

子育てに悩み、精神状態が不安定になっているお母さん、病院には答えはありません!!。

金谷精神療法研究所



所長  真理攫取
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by lacan_msl | 2008-04-24 08:04 | 事件分析 | Comments(0)
事件分析(親族2人強殺 松村被告)
京都府長岡京市と神奈川県相模原市で昨年1月、親族2人を殺害し、現金を奪ったとして、強盗殺人の罪に問われた住所不定、無職、松村恭造被告(26)の論告求刑公判が30日、京都地裁(増田耕児裁判長)であり、検察側は「人間性のかけらもなく更生など不可能」として死刑を求刑した。

松村被告は意見陳述で、「事件の最大の原因は自分のエリート意識。自分は特別な存在だから何をやっても構わないとの考えが根底にあった」と説明。事件を起こしたことについて「全く反省していない。遺族を悔しがらせることができてうれしい」などと述べた。
「自分は理不尽な目にあった」「より罪を重くして自分を追い込みたかった」とも言っている。

(http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/murder/?1201697482 YAHOO!ニュース より)


「自分は特別な人存在」という松村恭造被告。

まったく心が育っていない、母親が何も手をかけず世話していないはず。

フロイトのいう口唇期欠損である。

口唇期とは、口と唇の刺激が心地よく、快感を求める0~1.5歳の時期である。

この時期に心地よく母のおっぱいなりミルクを飲み、適切に世話され満足感を味わっていないと、そこに欠損・欠如感が生じる。

以後この人は口唇の満足を求め続けることになる。

その最たるものが、アルコール、覚せい剤など。(三田佳子さんの二男も同じ)

アルコール・覚せい剤に依存し続ける、それは母に依存し続ける講口唇期のあり方そのものである。

依存とは人に甘えることであり、口唇期欠損者は、依存と甘えの行動をとる。

その一つには、自分がこうなるのは全て他者が悪いと思う。

自分の快不快は他者に依存しているから、自分を心地よくするのも不快にするのも他者である。

悪いのは外、他者であり、自分は悪くない、間違っていないという独善論にいたる。

このことと、甘えがいろんな構造を生み出す。

甘えとは、みんな自分を許してくれる、自分だけは特別だ、自分を嫌っているはずはない、何でも自分に与えてくれるはずだと思い込む。

松村被告の「自分は特別な存在だから何をやっても構わない」という言葉はそのものである。

「自分は理不尽な目にあった」とも言っているため、納得のいく世話などされていないだろう。

理不尽に自分を否定され、要求を満たされず、なんで自分だけこんな目にあわなければいけないんだと思っている。

自分がこんない理不尽な目にあっているんだから、人を理不尽に殺しても何の罪意識も持たない。

それ以前に、彼はもう主体性を認められず精神的に殺されてきているのだから。

適切に世話をし、やさしく育てましょうという。

それは、思いやりや配慮、愛情をかけられることによって、情緒性が育ち、人の痛みのわかる、思いやりのある人間に育つからである。
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by lacan_msl | 2008-01-31 09:16 | 事件分析 | Comments(0)
長崎県佐世保市、散弾銃乱射事件
分析とは、死んでいる人を生き返らせること。
分析によって、死んでいたその時代にさかのぼり、共感して生き返らせる。
そして人は再生する。
再生=ルネサンス。
佐世保の散弾銃乱射事件のあったスポーツクラブの名前である。
馬込政義容疑者は人を殺すことによって蘇り、再生したかった。
彼は主体を、自分の欲望を抹殺し続けられた人だった。
だから欲望を持って生きている人間を抹殺した。
生殺上の鍵を握るのは神である。その神に彼はなった。
そして神としてこの世に蘇った。
というラカン理論でいう再生の道をとった。
人間とは主体を抹殺して新しい自分が生まれる。
彼は親に歯向かえば生きられなくて、いつも親の言うとおり自分の欲望を抹殺して服従して生きてきた。
だから散弾銃乱し人を殺すという形で歯向かって自分の主体を再生した。
しかしまた彼を裁く法がある。それによって彼は裁かれる。
ならばと、自分で自分の死刑執行人となった。
だから、彼が再生の場として選んだのは、スポーツクラブ「ルネサンス」。
この名前に意味があった。
このようないたましい事件を防ぐ方法を世間や一般の人は知らない。
分析によって言語化する。
つまり、いかに自分が自分の主体性を抹殺されて生きてきたかを語ること。
銃を乱射するのではなく、一番安全な言語によって放出する。
そうすれば、犯罪(行動化)も病気(身体化)もなくなる。
精神分析という道を、理論を知ろうとしないし、親も学校も社会も教えない。
ただ無知なのである。
それゆえに人は安易な行動化、身体化に走るしかないのだ。
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by lacan_msl | 2007-12-20 15:50 | 事件分析 | Comments(0)
守屋前次官夫婦で逮捕
高級クラブでつけ回し、ブランド品のプレゼント…。前防衛事務次官、守屋武昌容疑者(63)の妻、幸子容疑者(56)が「身分なき共犯」として、夫とともに収賄容疑で逮捕された。妻が収賄罪の共犯として立件されるのは異例だが、山田洋行元専務、宮崎元伸容疑者(69)への“おねだり”は常軌を逸していた。
また、幸子容疑者は高級クラブに友人7、8人を連れてカラオケに興じ、請求書を山田洋行に送るようクラブオーナーに指示。公然とつけ回しをしていた、という。
日本は母性社会。母性社会とは、社会の中で生きる人間同士が、母子一体化のような未分化なまま馴れ合って暮らしていることをいう。
これはけじめがなく、汚職がはびこる袖の下社会である。
それを象徴するような事件である。
子どもが親にねだるように、企業におねだりした守屋武昌容疑者(63)と妻。
しかも妻は7歳年上の夫を、「坊や」と呼んでいたという。
ここにも夫婦でありながら、母子の関係がみえる。
自分たちの遊興費を山田洋行に払わせる。人のものと自分のものの区別がつかない。
そこに父性性など見えない。
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by lacan_msl | 2007-11-29 23:46 | 事件分析 | Comments(0)
三田圭子さんの次男覚せい剤取締法違反(所持)容疑で逮捕
高橋祐也容疑者(27)は三度目の逮捕。
薬物依存は、そう簡単には治らない。心の病であり、精神科に入院したから治るとも限らない。
覚せい剤に手をだしてはいけない、しかしそれが止められない。
それを止める強い自我が育っていない。
依存症は、甘えと依存そのもの。それはフロイトがいった、口唇期の欠損である。
0~1.5歳の頃を口唇期というが、その時期赤ちゃんは口と唇の刺激を求める。それはそれが快感で心地よいからである。
ちょうどこの時期と授乳時期が重なり、母の暖かい胸に抱かれ、おっぱいを飲む。このとき母親がどういう気持ちで、どのように世話したか。
アイコンタクトをとりながら、可愛い、愛しいと思って授乳できたか。
女優という仕事をもっていたら、おそらくゆっくりと子どもと向き合い、世話をすることは難しかったのでは。
そうすると、子どもの側は、不充分な授乳体験とともに、心に欠損をつくり、いつまでもそこに固着する。
そこで心の時計は止まり、心は満たされないまま、欲しい欲しいと子どもの自我のまま留まる。
母のおっぱいは後に、お酒、タバコ、薬物などに置き換えられ、その欠損の度合いによって、依存症へと移行していく。アルコール依存、ニコチン中毒、薬物依存というように。
ならばどうすれば高橋祐也容疑者は、薬物依存から抜け出し、その年齢に相応しい生活が出来るようになるのか。
三田さんは読み上げた文のなかで「女優の仕事をしていていいのだろうか。仕事をするより、子どもを監視するべきではないかと悩んでおりました」とあるが、子どもが覚せい剤に手を出さないか監視するのではない。
欠けた愛情を注ぎ、世話をし、見守るのである。それを育て直しという。
不登校でも、非行でも、育てなおしをしていくと、母親と一緒に寝たり、お風呂に入りたいと言い出す子がいる。そこまで退行できるということは、母親が母親として子どもに認識された証しでもある。
踏み外した階段は、踏み外したままでは上がれない。もう一度欠けたところまで戻って、やり直すこと。
母親が元気でいるのならそれが一番早い、近道。
「すべては私たち夫婦の養育、教育の失敗」といわれているが、その事の本当の意味をわかっておられるのか。
「どうすれば立ち直らせることができるのか方法がわからず、夕べも一晩泣いてしまいました」と。
私のところに聞きにきてくれれば、彼の行動を説明し、対応法も全てお教えするのだが。
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by lacan_msl | 2007-11-16 23:20 | 事件分析 | Comments(0)
ボクシングのWBC世界タイトルマッチにおける亀田家の問題について
世界ボクシング評議会(WBC)フライ級の世界戦で反則を繰り返した亀田大毅はじめ、父、兄それぞれに処分が下された。
私自身ボクシングについては詳しくなく、ときどきテレビ画面で亀田家の人たちのことは、それとなく見ていた。
その印象は、対戦相手に対する挑発的な態度。その中で聞かれる、相手を馬鹿にしたような発言。
そして今回、度重なる反則行為と、それを助長するような父と兄の言葉が問題となった。
残念ながら、亀田家の父、史郎氏には父性がない。
社会とは組織である。それは社会を構成する各要素が結合して有機的な働き(多くの部分が集まって1個の物を作り、その各部分の間に緊密な統一があって、部分と全体とが必然的関係を有する)をする有する統一体である。そこには当然ルールが存在する。
父とは、この社会のルールを教える役目がある。して良いことと、悪いことを教えるべき立場の人が、一緒になってルールを犯してどうするのか。
一家のなかだけであれば許されても、対社会となったときそれは許されない。
そういった父の下で育った息子たちは、野放しとなり暴走するのは当然といえば当然。
また父は、その一家のなかで旗頭となり、一家が進む方向を指し示すのだが、それが反則を犯しても勝つことが優先されたということか。
父、司郎氏は、「大毅にとって、1年間のライセンス停止処分はあまりにも長いと思います」と言ったが、長い短いを言う前に、親子共々社会性、ルール、スポーツマンシップを学んでいただきたい。
亀田家の人たちが今回のことをどう考え、とらえ、反省し、今からどういう方向に向かうかである。
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by lacan_msl | 2007-10-16 09:19 | 事件分析 | Comments(0)
今話題の沢尻エリカさん
主演映画「クローズド・ノート」、初日舞台あいさつで、司会者が話を振っても「別に…」「特にないです」としか話さず、最後まで不機嫌さを隠そうともしなかった、その態度に批判と失望の声が相次いでいるという。
賛否両論様々あるようだが、本人が公式ホームページで謝罪のコメントを発表し、長ければ来年の1年間を謹慎する可能性もあるとか。
ネットの記事を読んだだけで、彼女についてこれ以上の詳しいことは知らないが、確かに舞台あいさつでの態度はバッシングの対象になるだろうとは思う。
21歳という若さもあるだろうが、過剰な自己愛のもと、自分だけは特別、何をやっても許されるという誇大自己を持ち、高を括っていたのではないか。それは甘えと依存のあらわれでもある。対社会に向かったとき、それは許されない。
健康な自己愛を持った人は、他者を愛することができる。(自分を愛するように、人は人を愛せる。自分を愛せないものは、他者をも愛せない)だから人をファンの気持ちを大事にし、不愉快な気持ちにさせるようなことはしないだろう。それがいくらキャラだとしても、そのときたまたま機嫌が悪かったとしても、冷静な判断をして、その場にあった態度をとる。
一方で、彼女のふてぶてしい態度をよしとする人もいる。その人たちは、自分もそのように社会で振舞いたいが、それはできない。本当は自分がやりたいことを代わってやっている彼女に、自分を重ねてみているところがあるだろう。

人は、現実の自分をしっかりみつめて、かくありたい自分になる努力をし、周りからも認められる、現実の裏づけをもっているか、肥大した自己イメージ、かくありたい自己イメージのみを見つめ、現実の等身大の自分が見えていないかの違いは大きい。後者を自己愛者という。
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by lacan_msl | 2007-10-03 11:25 | 事件分析 | Comments(0)
京田辺市16歳二女、警察官の父殺害事件
16歳二女は、自分が魔女だという幻想を抱いていた。それは殺人を犯すとき、儀式化として黒いワンピースを着たことからもわかる。
魔女である彼女は、鎌の代わりに斧を持って、夫の女性関係に恨みを持ち、復讐するという母の欲望を達成した。うつ病になってしまっていた母の夫への殺意を、二女であり魔女である彼女は汲み取り、殺人を実行した。
それは、母の欲望ということだけではなく、もう一つには、彼女の象徴的去勢を、父に向かって成し遂げたのである。この父にはおそらく威厳も何もなかっただろう。だから彼女は自分の意味をつくりたかった。母が嫌う父を殺すことが、彼女の魔女狩り(異端分子と見なす人物に対して、権力者が不法の制裁を加える)であった。そうすることによって彼女は魔女として復活した。彼女は主体性を抹殺され人間でないものになっていたので、殺人を成就すれば魔女になりきれる、そのためには父を殺す必要があった。
このように自分の意味をつくることを去勢(=象徴化)するという。打つということは去勢である。だから父の首を斧を振り下ろして切った。「象徴的去勢は叩くという行為で表される」とフロイトは言っている。叩く=(斧を)振り下ろす⇒象徴的去勢を意味する。これを彼女は象徴界で出来ないために、現実界と想像界でやってしまった。彼女には象徴界がない。現実界と想像界しかないため、魔女という想像界と意味を使って、自分を魔女としてこの世に復活させた。想像界(自分は魔女であるという幻想)をさらに現実界で行為化してしまった。
これは典型的な病理である。
彼女は自分が魔女であるという幻想がなければ、殺人という行為は出来なかった。彼女がそう思う何かが、彼女の養育史上あったはずであるが、それは今の時点ではわからない。ただ、中学のとき劇で魔女役を演じている。
母は、夫に見棄てられ、うつ(1~2ヶ月ひきこもって外に出なかった)になっていた。その母の無念を晴らすというあだ討ちの意味も含まれているだろう。
いろんな意味を複合している。その中心にあるのは、魔女という概念である。
そこに、母は娘である16歳の二女に父親のことを相談していたとあるように、いろんなことを吹き込んだのだろう。魔女幻想を持った彼女にとっては、うってつけのストーリーだった。
魔女とは、自分の中に悪魔の力がある。それは成長する過程で自分の中に分けのわからない衝動(破壊衝動やエロスティックな衝動タナトス的な衝動など)がある。それらを意識化できないために、自分が奇妙な存在になる。それが彼女の場合には魔女という概念になった。

福島の母親殺人事件は、男子であったために、ファルスは1本化しており明解であったが、女性の場合いろんな要素(いろんな想いや価値観)が重なって複合してしまう。ここに一般的にも男性は単純、女性は複雑と言われる根拠がある。最終的に一本化するために使われたのが幻想であった。彼女には魔女というキャラクターがあったために一本化してしまった。それによって全てが現象化・結晶化してしまい、行為化できてしまう。この中心がなければ分散してしまい、どれも行為化できない。普通の人はそこに至らない。
中心に何を持つかで決まる。いいものを持てば、自己を成長発展させ、人にも喜ばれる。
彼女の場合は、魔女という想像界的ファルスが入ってしまった。人間特に女性には核となるある一つのイメージが入らないとまとまらない。

以上報道された情報からこの事件を分析してみた。
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by lacan_msl | 2007-09-21 12:05 | 事件分析 | Comments(0)